理系・文系のくくり方をもう止めた方がいいんじゃないの?と思います。特に高校で決めたら、基本的にそれが一生ロックされるというならわし。

僕はハード・ソフト含めて10年あまりプロダクト作りに携わってきたので、その経験をもとに、どうしてそう思うのかを書いてみます。他の業界のことはよくわからないので、ぜひこのエントリーを読んでご意見くださいませ。

この区別の起源

Wikipediaの「文系と理系」の項を読むと、文系・理系という区別は、旧制高校の制度に起源があるようです。
 

そもそもこんな区別があるのは、発展途上国の特徴である。黒板とノートがあればすむ文系にくらべ、理系は実験設備に金がかかるので、明治時代の日本は、学生数をしぼらざるをえなかった。そこで数学の試験をし、文系/理系をふり分けることにした。入試問題が別々なので、その前の段階で文系/理系を選択しなければならない。

— 橋爪大三郎、『橋爪大三郎の社会学講義2』(夏目書房、1997)63頁

 
なるほど、結構納得感のある説明。でも、旧制高校って今から100年以上も前の話。いったいこの制度いつまで続けるの?という点はしっかり考える必要はありそうです。

ものの作り方が変わってきている

ものづくりは、
  • 自分の得意なこと(技術)
  • 世の中に求めてられていること(ニーズ)
  • 自分のやりたいこと(意思)

の重なる部分でやるわけですが、最近この3要素間の比率が急激に変わってきているように感じます。

 
これまでのものづくりでは、自分の得意なことを最重要視して、それをいかに売るかというアプローチが多かったと思います。うちは液晶が強いからテレビ作ろう!とか。こういう風に、何を作るのかがビシッと決まっている時は完全に分業するのが正解で、技術者(理系の人)が技術を突き詰めた商品を作り、それを営業(文系の人)が売ってくるモデルが成立していたのでしょう。
 
しかし昨今、ものを作るための手段は、だんだんとコモディティ化が進んでいます。ハードウェアでは、チップセット、メモリ、基板、液晶、バッテリ、外装を組み合わせればそれなりの商品を作ることができます。ソフトウェアでは、開発フレームワーク、API、OSSライブラリなどを組み合わせることである程度のプロダクションサービスを作ることができます。
 
そんな中で今最も大切なことは、ユーザー体験を起点に考え、世の中に求められているものをいかに作るかなのですが、この「世の中に求められるもの」を掘り当てるのが非常に難しいわけです。文系の人が、「これがニーズあるものです」という企画を作って、理系の人が「はいわかりました。それ作れば売れるんですね。頑張ります」というモデルは成り立ちませんw
 
エンジニア、デザイナー、企画者、経営者、という役割の境界線さえも一旦忘れ、ユーザーの価値を作るというゴールからの逆算でアプローチする必要があります。境界線の中にこもったきりでは既存の思考の枠を出ることはできず、境界を超えて思考することで、はじめて破壊的なアイディアの可能性が生まれてきます。
 
一人ですべてをやろう、というのではありません。得意分野(major / expertise)はもちつつ、より幅広い分野の知見を貪欲に吸収していかなければ、得意分野の強みが活きない時代になってきているのです。

思考停止の遠因

もちろん、自らその境界を突破して知見を獲得しようとする人たちもいます。でも、多くの人は、自分のコア領域の周辺には進出するものの、理系・文系の境界線に差し掛かると、無意識にそこで歩みが止まる人が多いのではないでしょうか。
 
たとえば、マーケティングを専門にしていた人が、営業や商品企画に進出することはあっても、「今後のマーケティングではプロダクトの中身もある程度理解していないといけないな」とエンジニアリング領域の勉強をするところまで行く人はあまり多くないと思います。そのリターンは非常に大きくなっているにも関わらず。
 
このように無意識に境界線の前で立ち止まってしまうことこそが、理系・文系区別の一番のデメリットだと思います。
 
多くの場合において、高校2年ぐらいで理系か文系を決めると思いますが、そのときなんとなく決断を下した結果、「あ、ぼくは文系なんだ」「あ、きみは理系なんだね」というレッテルが貼られ、自分でも意識しないうちに上記のような非合理的な決断を一生続けることになるのです。
 
実際のところ、ぼくがプログラミングを勉強してる話なんて言うと、まわりの反応は「あれ、文系だよね?」が決まって第一声の反応です。
 
僕のプログラミングスキルは大したことが無いのですが、これまで培ってきた商品企画・プロダクトマネジメント・プロダクトマーケティングのスキルとプログラミングスキルをかけ合わせることで差別化を図ることが可能で、サラリーマンとしても組織の中で差別化を図ることができましたし、個人としてリリースしたTennisCoreもApple Watch Best of 2015アプリに選んでもらうなど一定の成果をおさめることができました。境界線を超えた「掛け合わせ」のメリットは非常に大きいなと実感しています。
 

組織づくりまで理系・文系ベース

理系・文系の区別は、そのはじまりは実利的な理由によるものだったかもしれませんが、今では、ほぼ宗教かと思うほど盲目的な信仰です。その証拠に、理系・文系の境界の延長線は高校、大学のみならず、実社会においても続きます。文系の人は企画部へ、理系のひとは開発部へ。
 
何を作るかが明らかな時代においては、この機能切りの仕組みがワークしていたかもしれません。しかし、ユーザー視点から逆算してモノを作るべき現代、新たな価値を生み出さなければならないフィールドではことさらに、プロダクトごとの組織をつくるほうが成功確率は圧倒的に高いと思います。

教育を逆算方式に

では、どうすればよいのか?
 
まずは個々人が、無意識に持っている理系・文系を壁を意識的に取り払う必要があるのは言うまでもありません。とはいえ、個人の努力に頼るだけではなく、仕組みの改善も必要です。
 
ぼくは、学校教育も実社会のように達成したいことからの逆算方式にするべきではないかと思います。
これまでの教育は、いろいろな経験をした大人たちが、将来こういうツールが必要になるからいまから勉強しておくといいよ、というのを考えて子どもたちに「与える」というスタイルの教育でした。その結果、ぼくたちは、数学や物理や古典など理由もわからず学んできました。なんとか自分で意味を見いだせた科目はよいのですが、そうでない科目は苦行以外の何物でもありませんでした。
 
今後は、この「これなんの役に立つの問題」を撲滅し、
 
世の中ではどんな問題があるという点を気づかせる。
その解決方法にはどんな方法があるのかを発見させるためのサポートをする
そのためにはどんな知識・能力が必要なのかを考えさせる
目的と意味付けを理解して学習する
 
というアプローチを取っていくべきではないでしょうか。この際、今学校で教えられている国語、数学、外国語などと同じような知識が使われるはずですが、生徒の学習意欲、習熟スピードの観点で言うと現在の数倍の学習効果が上がるのではないかと思います。
 
また、この時に取り組んだ「問題」が10年後、20年後に存在しない問題になってしまったとしても、問題から逆算して必要なことを自ら学んでいくというユニバーサルなスキルは廃れることはありません。
 
そんな教育においては、理系・文系という区別は意味不明なシロモノでしか無いと思うのです。